【第一回・感想】禅学入門/鈴木大拙|世界に禅を伝えた名著の続き。今回は鈴木さんの語る宗教の枠、宗教の極致、禅への誤解について自分なりに考えてみました。
禅について我思う
宗教の枠に囚われない?
鈴木さんは「禅は宗教の枠に囚われない」と主張していた。きっと鈴木さんにとってはそうなんだろう。
でも私は、そもそも大元の仏教の教え自体が、異教に対してわりと寛容的で共存的で調和的なんだと思う。
そして禅が《宗教の枠に囚われない》のではなくて、《宗教の枠に囚われない》人がいる。じゃないかねぇ。
宗教に囚われるも、囚われないも人の心だぁよ。
わざわざタイのお寺にヴィッパサナー瞑想を習いに行った、欧米人の友人の言葉を思い出した。
「自分はクリスチャンだけど、心はテーラワーダ(初期仏教)♡」
宗教の極致は禅?
鈴木さんは「宗教の極致は禅」としている。これもきっと鈴木さんにとってはそうなんだろう。何だかんだ言っても、その主張を支える根拠は、信心でしょうから。
余談だけど、ひろゆき氏なら「それ主観ですよね?はい、論破😊」と切り捨てそうな話だな(笑)
「宗教の極致は?」の問いに、人類共通の答えは無いし、検証もできない。
なので答えは人それぞれ。鈴木さんの考えもアリだと思う。禅の心からかけ離れた誇示では?という気がしなくもないが😅
禅というよりも、解脱なら多少は共感できたかもしれん。
もしも私が臨済宗信徒だったら、共感できたかもしれん。
実は、自分が考える宗教の極致はあるんだけどねぇ…、でもここで語るのは無意味だろう。
つくづくこの世界はフラクタルだったんだな、とだけ。
それはともかく、私は、臨済宗の禅に限らず、神道、道教、ヒンズー教、アブラハムの宗教、仏教…どの宗教にも壮大な部分があると思うんだ。
ほんの一例ですが、
I am Alpha and Omega, the beginning and the end, the first and the last.
(私はアルファでありオメガである。始まりであり終わりである。)引用:新約聖書・ヨハネの黙示録
Ashes to ashes, dust to dust.
(土は土に、塵は塵に)引用:旧約聖書・創世記
・Aham Brahmasmi
(我はブラフマンなり)
・Tat Tvam Asi
(あなたはそれである)引用:ウパニシャッド (※バラモン教の哲学書)
道可道、非常道。名可名、非常名。
引用:道徳経・上篇・第一章/老子 (※道教の経典)
私の口語訳:語りえた道も変わりゆき、名付けたその名も変わりゆく。
吾唯一神道者。以天地為書籍。以日月為証明。
引用:神代上下抄/吉田兼倶
私の口語訳:唯一神道(吉田神道)を信ずる吾は、天地が書であり、日月が証である。
ただ信心を要とす
引用:歎異抄・第一章/唯円 (※浄土真宗・親鸞の教え)
言い出したらキリがないので、このへんにしよう。どれも短い言葉の奥に壮大さを感じる名言だね。
誰かにとって宗教の極致かもしれない。でもそれぞれの宗教真理でしかないね。
私は、これらを禅と比べたところで、そこには優劣も正誤も無いと思う。
それぞれ主観フィルターと、宗教フィルターと、宗派フィルターと、民族フィルターを通して見出した真理だから、各宗教又は各宗派独自の真理とやらになっていくんじゃないかねぇ。
禅への誤解
鈴木さんは、人々が禅を誤解しているという。視野が狭いとも。誤解云々というよりも、興味が無い人の方が多いのでは?
鈴木さんにとっては、信者ではない私も誤解している一人に該当するだろう。
鈴木さんがいくら偉い学者でも、本読んで洗脳される感性の方が寒いので、視野が狭くて誤解している者のままで結構、結構😊
だがしかし
誤解を解くための解説に、神や霊魂などへの信仰や儀式などを持ち出していたが、これはさすがに、こじつけ臭が…😅
そういう主張は、鈴木さんに限ったことじゃないけどね。
- 何故臨済宗は《禅》を重視した?
- 何故初期仏教は《悟り》《解脱》《中道》を重視した?
- そもそも臨済宗の根幹は?
- そもそも仏教の根幹は?
- ついでにキリスト教の根幹は?
- そもそも宗教の根幹は?
どの答えも突き詰めれば同じところに帰結する。
禅も解脱も中道も悟りも、愛も犠牲も宗教の根幹から伸びた枝葉でしかないのよ。
神仏や霊魂も、仏壇や神棚も、儀式も公案も坐禅も、曼荼羅もヤントラも、経典や聖典も然り。
なんなら
- 限界を感じて、己の外側に全知全能を求めたアブラハムの宗教。
- 限界を感じて、己の内側に悟りを求めた仏教。
両者のベクトルの違いというか、見つめている極の違いも然り。ぜーんぶ枝葉だよ。
そしてこの本『禅学入門』は、枝葉の枝葉にある《価値》についての話、と見ることもできるんだなぁ。
特定の宗教・宗派のミームの内側にいると見落としがちになるかもしれん。でも、なにも偉い学者や宗教者でなくても、気付く人は気付くんじゃないかな😊
あとがき
宗教は理想を見せ、真理と称する見解を語る。
- その真理とやらを絶対として支えているものは?
- その真理とやらの信憑性を保証しているものは?
どっちの答えも信仰心だ。
結局は観念なのでね。禅も然り。
また信仰心には、事実・現実ではない何かを信じて、事実・現実である何かを信じない側面が有る。
最近は宗教から坐禅(仏教瞑想かも)を抽出・アレンジして、宗教から剥離・独立したマインドフルネスとかあるね。
でも鈴木さんの場合は、本書を読む限り、臨済宗への信仰心を放棄していないインフルエンサーが紹介する禅思想、という印象だった。
日本の歴史を見ての通り、約800年も前に「臨済宗は、主に禅思想を信じて実践する大乗仏教の一宗派である」と、開祖と国と信徒の認識が一致したはずだ。
その認識と信用があるからこそ、約800年も前から国と信徒が臨済宗を支え続けてくれたんじゃないかねぇ。ありがたいことだね。
『禅学入門』は、昭和16年の本だそうで…
禅の解釈は時代や人によって変わる可能性があるでしょうが、宗教法人の臨済宗の総意としては、ずっと変わらない・変えたくない部分ってあるんじゃないかと思うのよね。
宗教素人ですけど、そんなことを思いました。読んでくれてありがと😂
ガチで臨済宗の禅を理解したい方の必読書ならコレ。
臨済宗の開祖・栄西さんによる禅書の全巻完訳本です。私は未読ですが、読難易度が高いそうですよ。そして高額。
『禅学入門』の記事は二回シリーズになっています。