【第一回・感想】アンドロイドは電気羊の夢を見るか?/ディックの続きです。今回は、電気羊と山羊とアンドロイドの意味を、自分なりに読み解いてみました。
アンドロイドの数字
アンドロイドの数字に込められた意味を読み解いてみた。
地球に来た8名のNexus6
物語では8名のアンドロイドが火星から逃亡して地球に戻って来る。Nexus6とはそのアンドロイドのバージョン名のことです。
Nexus6の6の意味
これは『旧約聖書 創世記 第1章』の天地創造で、神が6日目に地上生物と人間を創造したというエピソードにちなんで6にしたんじゃないですかね。つまり創造された存在という意味を込めたんじゃないかな。
8名の意味
『旧約聖書 創世記 第6-9章』のノアの方舟で8人が救われ生き残ったエピソードにちなんで8にしたんじゃないですかね。このエピソードから8は新しい人類の始まりを象徴するということじゃないかな。
そうなると逃亡アンドロイドが乗っていた宇宙船はノアの方舟のメタファーだね。
また8はイエス・キリストの復活と再生を表す数字で、新しい時代の象徴でもある。
まとめると
「新たに創造された人類(有機アンドロイド)8名が、ノアの方舟(宇宙船)で地球に帰還して、新しい時代が幕を開けた」って意味じゃないでしょうか。
つまり「これは、地球に帰還した新人類(有機アンドロイド)による、新時代の幕開けの物語です」というディックさんから読者へのメッセージだと思う。
処理された6名のアンドロイド
『新約聖書 マタイによる福音書 25章』の「最も小さき者達」の話にイメージを重ねたんじゃないかなと思う。
6名の意味
処理されたアンドロイド6名は《最も小さき者達》のメタファーだと思う。
もっというと、アンドロイドは、人間から粗末にされている社会的弱者である。という意味ではないかな。
理由は『新約聖書 マタイによる福音書 25章』では、6つの事例を挙げて、社会から疎外されたり、必要とする何かがあるのに与えてもらえず、粗末な扱いを受けている社会的弱者を《最も小さき者達》と説明している。
また『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、8名のアンドロイドが火星から逃亡して地球に戻って来た。社会的罪は有るけれど、ある意味、難民・社会的弱者みたいなもんですな。
そのうち2名は既に処理済みという設定で物語が始まるので、処理された6名、つまり救われなかった社会的弱者の6つのエピソードが盛り込まれているので。
羊と電気羊と山羊
羊と電気羊と山羊の意味
上記と同じ『新約聖書 マタイによる福音書 25章』の「羊と山羊」の話にイメージを重ねたんじゃないかなと思う。
羊は、神の羊=信者のメタファー。
電気羊は偽りの信者で、山羊は偽りの信者の正体、例えばデッカードのような信者。という意味だと思う。
理由は『新約聖書 マタイによる福音書 25章』では、《最も小さき者達》への粗末な扱いは私(キリスト)にしたも同然である。《最も小さき者達》は私の兄弟であり、彼らを粗末にした者は羊の皮をかぶった山羊である。といった主旨の説明をしている。
「小さき者達だって仲間なんだから、救いの手を差し伸べてこそ神の羊よ。愛の出し惜しみをしちゃダメよ」って教えでしょう。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』でデッカードは、飼っていた本物の羊が死んだので、電気羊を飼った。その後アンドロイドを処理した報酬で山羊を買った。
かつては神の羊であっただろう人間。でも現在は《最も小さき者達》であるアンドロイドに救いの手を差し伸べない人間。例えばデッカードのように電気ペットで取り繕って神の羊のふりをしているが、その本質は山羊に成り果てている。
といったアンドロイド寄りの目線からの皮肉を込めて『新約聖書 マタイによる福音書 25章』になぞらえて描いている気がするんだなぁ。
山羊の末路の意味
命を奪われてしまった山羊のシーンは『旧約聖書 レビ記 16章』に基づく「贖罪の儀式」になぞらえているんじゃないかな。構図がソックリですもん。
「贖罪の儀式」では二匹の山羊を用意する。
一匹は神の山羊=神の生贄にされる。死後に救われて神の元に逝ける山羊ですな。
もう一匹は、アザゼルの山羊=罪を背負わされて荒野に放たれる。飢えや渇きで生命を落とすか、他の獣に屠られるか。こちらの山羊も死亡フラグが立っている。ただし死後は救われない。
ちなみにアザゼルとは、旧約聖書やユダヤ教では《罪を背負う者・荒野に放たれる者》のこと。要は荒野にいる悪霊や魔物の類いでしょう。
本物の山羊の意味
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、なんの罪もないのに命を奪われる本物の山羊は、神の山羊・神のために生贄にされる山羊のメタファー。
ただし宗教は、人が人のためだけに作ったものなので、アンドロイドは救済の対象外。アンドロイド達にとっては宗教とは差別的なものなわけだけだ。
故に神の山羊は、レイチェルの手で突き落とすからこそキャラが立つ。
流石だねフィリップさん👍
山羊はもう一匹いる
もう一匹の山羊、それはデッカード。
なんせ彼は羊の皮を被っている山羊のメタファーですので。
つまり人間の罪を背負わされて荒野に放たれるアザゼルの山羊。彼はスケープゴートに適役の山羊さんですな。
そして買ったばかりの山羊の死を知ったデッカードは、自分も死のうとして荒野に行きますしね。これって「贖罪の儀式」と同じ展開になっているでしょ。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の記事は、こちらでも紹介しています。