【第四回・深読み】アンドロ羊|マーサー教の神話を読み解くの続きです。フィリップ・K・ディックさんの読者への問いかけについて考えててみました。
ディックさんからの問いかけ1
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
ディックさんは、タイトルで読者に質問しているんですね。
答えは、この記事の冒頭に書いた『旧約聖書 創世記 第1章』とディックさんのメッセージが絡んでくるんですよ、多分。
その前に
物語の設定で、人間がなぜペットを飼うことに強く執着したか?ですけど、根底にはペットを通して共感性を実感したいという欲求があったんでしょう。
それがエスカレートして、ペットの飼育がステータスになったのではないかな。
もっというと、荒廃した地球で孤独と絶望の中で生きるが故に、その欲求が強かったんじゃないかな。だから共感性がある人間は、滅びつつある生物達を手厚く保護し、愛情を注いであげたかった。
人は共感性を有しているから、共感性を実感できる対象を求め、夢を見る。
デッカードはせっかく手に入れた本物の山羊が死んだ後、ヒキガエルを拾う。本物だと信じて持ち帰ったが、実は人工物だと知って落胆を覚えた。でも、それでもいいと思った。
彼は今までペットをステータスという価値の基準でしか見ていなかったが、アンドロイド処理を通して色々気付くことがあって、その拘りが消えたんじゃないですかね。
だから電気ヒキガエルは、デッカード夫妻の子供のポジションに収まり、二人に微かな希望の光を灯したのだ。
人工物でもそこに生じた命に気付き、その命に愛情を注げると思えたなら、飼い主にとってかけがえのないペットに成り得るんでしょう。
価値観に囚われなければ、愛せる対象ならば、本物の動物でも本物そっくりの人工ペットでも、見た目が可愛い小動物でも醜いヒキガエルでも、きっとどっちでもいいんだよ。
個人差は有るけど、人間は共感性だけでなく寛容性と柔軟性も備えている。人工物に生じた僅かな命が観えるのも、人間ならでは。
(ところで電気羊はどうなったんだろう?廃棄?)
ということで、質問の答え
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を言い換えると「アンドロイドは電気羊を飼うか?」。その真意は「アンドロイドは共感性を実感できる対象を求めるか?」ですね、多分。
Nexus6型アンドロイドには共感性が装填されていなかったので、答えはNOでしょう。
だがしかし
Nexusには「つながり、結び付き、連鎖、中心、中枢」などの意味がある。
【第二回・深読み】アンドロ羊|電気羊と山羊とアンドロイドの「アンドロイドの数字」の記事にも関わってくるのだが、Nexus6アンドロイドは単発じゃなくて、新時代の中心として社会と繋がり未来へと連鎖していく存在なんでしょう。
アンドロイドを製造しているローゼン協会は、Nexus6型アンドロイドに修正を加えて、アンドロイドか人間か識別不能なNexus7型アンドロイドを完成させるつもりでいると書かれていますし。
つまりアンドロイドは将来的に、共感性を獲得する可能性が有るわけだ。
そして『旧約聖書 創世記 第1章』の天地創造では、7日目に神が天地創造の完成を宣言し安息している。
one sheep, two sheep, three sheep……
(羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……)
Do androids dream of electric sheep?
(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)
Nexus7型アンドロイドなら、答えはYESになるだろう。
Nexus6型アンドロイドが新時代の幕を開いた。次のNexus7型アンドロイドは、究極の新人類完成体として、電気羊の夢を見ながら安息できる日が訪れるだろう。
ディックさんからの問いかけ2
人が人であることの条件とは?
「人が人であることの条件とは?」と読者に問いかけている作品だと思う。それも「自分なりの答えを見出してね」というよりは「考え続けてね」って感じ。
でも万人にとっての正しい答えが無いね。最適解なら出せるかもしれませませんが。
ちなみにディックさんは後書きで、たとえ生物学上人間であろうと親切でなければ人間ではない、アンドロイドと同じだという主旨の主張をしていた。
比喩でしょうが、それがディックさんが考える人が人であることの条件なんでしょう。
デッカードが、ルーパとレイチェルに見せたのは明日の無い優しさだった。彼のクズっぷりを言い出したらキリが無いし。
本人は、アンドロイドに共感しただの同情しただの言ったり、俺は人間か?とかグダグダ悩んでいたけども、結局、人工物の形状に欲情した自分を正当化したかっただけでは?とすら思った。
ちなみに同業者レッシュには、ヤリモクだと見抜かれていた😆
ディックさんにとって、おそらく羊の皮を被った山羊・アザゼルの山羊のメタファーだったデッカードは《人が人であることの条件》を満たしていたんだろうか?
サブキャラの知的障がい者イジドアだけが条件を満たしていると思っていたのだろうか?
問いかけよりも、そっちの方が気になっちゃった。
とりあえず、私の答え
・人が人であることの条件とは?
親切心だけにフォーカスしたディックさんの答えは、ちょっと極端だなと思った。理想的な人間像というなら分かるけども。
私も、心だけにフォーカスした理想論を言えば、人間を人間たらしめているのは「他者を思いやる心と他者と協力する知恵」だと思うので、ディックさんの言い分も理解できなくもないけどね。
しかし愛でも慈悲でも親切でも思いやりでも赦しでもいいけど、それらを与えたり、得るには逆の力も必要だよ。
人はそれらの善き心、逆の心、両方知りつつ有しつつせめぎあってるはずなので。
つまり色んな心が生じ形成されていくのが人でしょ。
故に人の世は、愛と同時にエゴみたいなもんも必然的に生まれる世界ってことだな。
さて、私の答えは…
人間は肉体であると共に精神であり存在である。さらに経験や環境など様々な要因が加わって、個々の人格が形成されていくのだろうと思っている。
だから人間の条件も何も… 、親切だろうがクズだろうが、主体性が欠落して機械的になろうが、人間は人間でしかなく、人間以外には成り得ないんじゃないかなと思う。
・補足。人間とアンドロイドの違い
システムが全然違うんじゃないの?
アンドロイドは、人間が人間のために、人間が設計して人間の手で作った存在。あと完成後にシステムを起動させる操作が必要なはず。つまりアンドロイドは、ブートストラップ問題をクリアできない。
一方、人間は全く同じ個体は量産できない。でも知的生命体の関与不要・起動不要という完全自動運転で地球生命誕生がスタートして、地球生命体の体系は複雑化・多様化してきて人類がいる。
何が言いたいかというと、人間とアンドロイドの心は概ね同質で、身体的に一見識別不能でも、存在としては完全に同類とは言えないと思う。
どんなに人間に近づいても、似て非なるものだろうよ。
ただし完成・起動後の高性能有機アンドロイドなら、人間と同等にリスペクトすべき存在でしょう。
人間と概ね同じ精神活動をしていれば個体の自我も育つだろうから、アンドロイド一人ひとりが唯一無二の存在に成りゆく者だと思う。人工プログラムから生じた生命であっても虐待NGだと思う。
しかし万が一、アンドロイドを作った結果が人類の脅威でしかない場合は、人間は心の痛みを背負ってでも、人間の手でアンドロイドを終わらせるべきだろうね。共存も住み分けもできないのなら、生存競争が始まるので。
自分で蒔いた種は自分で刈るのが古(いにしえ)からの習わしよ。
ドライな答えになっちゃったかしら?
あとがき
以上が私流の解釈と質問の答えです。正解かどうかは分かりません😊
もし時間と興味があれば、あなたもフィリップ・K・ディックさんの傑作SF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで知の冒険をしてみてくださいませ😊
それにしても長かったなー😅
Amazon prime
監督:リドリー・スコットさん、主演:ハリソン・フォードさんの『ブレードランナー』は、私の一番好きな映画なんですよね。特にこのファイナル・カット版が好きだ。
劇場版との大きな違いは結末が違うこととナレーションが無いこと。ちなみにディレクターズカット版もある。でもファイナルカット版がこの映画の最終形ですね。
ストーリーも役者も、レンブラントさんの絵画のようなライティングの美しい映像も、ヴァンゲリスさんの曲も何から何まで最高だった。
ショーン・ヤングさんが演じたヒロインのレイチェルも、ダリル・ハンナさんが演じたプリスも超お美しい。
けれど、なんと言ってもルトガー・ハウアーさんが演じたロイの最後が、あまりにもエモ美し過ぎて神々しくて尊い尊い✨
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『ブレードランナー』の続編。監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴさん、主演:ライアン・ゴズリングさん。
舞台は前作から30年後の2049年。今回はライアン・ゴズリングさん演じるブレードランナーのKが主人公ですが、前作の主演ハリソン・フォードさんも引き続きデッカード役で出演している。
なんと前作で逃亡したデッカードとレプリカント(アンドロイド)のレイチェルとの間に、子供が誕生していたという奇跡が起きた設定になっていた。
デッカードが人間なのかレプリカントなのか謎ままですが、とりあえず彼の繁殖能力がハンパないってことだけは判明したわね😂
内容は暗めでシリアスで哲学的。あと長い💧2時間43分の大作。
賛否両論がある映画ですが、前作ほど難解ではないです。