直筆原本は、本当に存在したのか?
これ⬇について推測してみた。素人の想像の域を出ませんけどね😊
自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがない。
つまり直筆原本が残っていない以上、宮本武蔵さん自身で『五輪書』を執筆したかどうか不明ってことですよね?(確か、弟子の寺尾孫之丞さんの第一写本も無いらしい)
それと後世において、書き加えられた部分やアレンジも見られるってことですね。
ならば『五輪書』については、こういう可能性が考えられるってことでしょう。
- 本人が頑張って書いた。
- 本人は病気でシンドいので、弟子に代筆させた。
- 同じ理由で、弟子にゴーストライターをさせた(要するに丸投げ)。
- 宮本武蔵さんの死後に、武蔵さんが生前語った内容を弟子達が書きまとめた。
どう思います?
私の推測
1について
私は、やっぱり1が一番可能性が高いと思う。
もともとは本人直筆の原本が存在したのだが、消失したではないかな。
なお、洞窟で執筆したって説はガセらしいので却下。
実は岩戸山に登って祈願しただけらしいね。万が一敵が来たら、その時点で追い詰められた構図が出来上がってしまう洞窟に、兵法者が引き籠もるなんて有り得ないもんね(笑)。
宮本武蔵さんは、寛永二十年に『五輪書』の執筆を始めたが、翌年に発病したと言われている(癌だったのではないかという話もある)説を採用して1だと思った。
書き始めた頃、既に多少具合が悪かったんじゃないか?大昔のことだから、発病とは既にかなり悪化した状態のことかもしれないし。ひょっとしたら読み書きもままならないほどだったかもね。
だとしても執筆から発病まで1年ほどある。書ける時間はあっただろう。
しかし段々病が進行して、それに伴い文章チェックが甘くなり、重複してもそのままになってしまった箇所などが見られるようになったのではないだろうか。
2について
次に可能性が高いと思うのが2の弟子が代筆。
最初から宮本武蔵さん直筆の原本『五輪書』は存在しなかった。
宮本武蔵さんが語ったことを弟子が書き留めた。それを武蔵さんがチェックしていた。しかし病のせいで段々チェックが甘くなった。
もしこのパターンだったなら、多分その弟子は宮本武蔵さんから『五輪書』を託されたといわれている寺尾孫之丞さん。
それと代筆者が弟子なら、文章がちょっとアレだと思っても、ただでさえ具合の悪い師匠に向かってダメ出しとか酷なことは言えなかったでしょうね。
そして代筆原本を写本と偽り、宮本武蔵さん直筆の原本は消失した設定にすれば、事実は隠蔽できますね。しかし第一写本は無いという。あっちこっちにタライ回しして、写し書きしている間に紛失しちゃったんだろうか?
3と4について
3と4は違うと思う。
理由は
3は、ゴーストライターとして信頼できる弟子がいたとは思えないから。
4なら、弟子達で抜かりなく編集や校正するはず。でも『五輪書』は校正が甘い。
まとめ
誰が書いたにせよ、死後に他者の考えを勝手に書き込まれた部分も有るにせよ、概ね宮本武蔵さんの考えが書き記されたものだろうから、とりあえず『五輪書』は、宮本武蔵さんの著書と呼んでいいのではないかと思う。
そして重複等による残念な部分があっても、当時病に冒されていた宮本武蔵さんにとっては、近づいてくる生命の終わりの時を感じながら、考え抜き、選び抜いた精一杯の言葉だったのではないかと思う。いや、思いたい。
なぜ『五輪書』を書いた?
書き残す以上は、誰かに読まれることを望み、想定していたハズなので
- 宮本武蔵さんなりの兵法書や指南書を読みたい、書き残して欲しいというニーズがあった、又はニーズを察したから、それに応える気になった。
- 自分の遺書もしくは人生の集大成として書き残したい、後世に伝えたいと望んだ。
ってところが妥当でしょう。
でも、もう一つ理由が有ったと思う
その理由とは
- 自分の価値を回復させたかった。
つまりレッテルに対するわだかまりが有って、誰かに自分の正当性を伝えたいっていう想いがあったんじゃないかと思う(実は身から出た錆が原因じゃないかなー)。
全て想像の域を出ませんけどね😊
宮本武蔵さんに貼られたレッテル
それは佐々木小次郎さんとの巌流島の決闘による悪評だと思う。
では、私なりに考察してみよう。
まず、諸説有るので何が事実なのか知る由もない。佐々木小次郎さんが実在の人物だったのかどうかも判らないけど、該当する人物は実在したんでしょう。
それと、後世に書かれたものは全部嘘、とまでは思っていない。ただ『小倉碑文』については武蔵さんを弔うために養子の伊織さんが建立したので、身内贔屓なはずだから丸っと却下しました。
武蔵の策略1 小次郎を不利にする
熊沢淡庵さんの『武将感状記』では、宮本武蔵さんは舟の櫂(かい)を二つに折って木刀にしたとされているけど、これは違うと思う。いくら二刀流とはいえ、小次郎さんの刀(約90cm)より短くするなんて自◯行為なので。
宮本武蔵さんの木刀(棹)=舟の櫂だったとすると、多分1.5〜1.8mほどの櫂を折らずに使ったんじゃないか?(加工はしたかもしれない)
これだと双方の剣の技量が互角だったとしても、佐々木小次郎さんが負ける可能性大。だって宮本武蔵さんが圧倒的に有利ですもん。理由は
- 櫂の方が長いから、刀ほど間合いを詰めなくても良い。
- 櫂なら殴打で人を葬れるから、以下同じ。
- 遠心力も櫂の方がパワフル。
- ついでに宮本武蔵さんは小次郎さんより大柄でしょうから、多分リーチも腕力も有利。
- ついでに佐々木小次郎さんって、実は老齢だった可能性大。
たとえ櫂ではなくノーマルな木刀だったとしても、小次郎さんの刀より長いものを使ったでしょう。
刀は斬るための武器なので、幅が狭く薄い。故に殴打だけでは人を葬ることは出来ない。つまり小次郎さんは、剣道よりもさらに間合いを詰めなきゃならん。でも上記の理由で自分の間合いが取れない。
どんな名刀でも、ターゲットに届かなけりゃ斬れないもんね。
佐々木小次郎さんは「俺は棹で戦うけど、小次郎は刀を使えばいいよ😊」って主旨の手紙を受け取った時点で、宮本武蔵さんの狡猾さと心の弱さに気付いていたんじゃないか?ひょっとしたら自分は殴打で負けるかもって予想もしていたかもね。
だって佐々木小次郎さんも、剣豪と評された兵法者ですもん。
しかし彼は男気が有り過ぎて生命を散らしてしまったね。
武蔵の策略2 弟子達を連れて行く
細川藩家老の沼田延元さんの『沼田家記』によると、巌流島(舟島)に約束通り一人で来た佐々木小次郎さんの死因は、決闘で負けた後、島に隠れていた宮本武蔵さんの弟子達による撲◯と記されている。
最初から決闘じゃなくて、佐々木小次郎さんを集団リ◯チ◯人する目的だったのがミエミエ💧
ただ、「決闘の後で弟子達が〜」は、ちょっと微妙だと思う。あと弟子が、師匠の目の前で勝手に小次郎さんを葬ったとも思えない。
やはり弟子達は、師匠の指示に従っていたはずだ。
でも自分が負傷や◯亡するかもしれないリスクを背負い込んで、勝敗がつくまで弟子達を待機させていたとは思えない。
弟子達は事前に隠れて待機し、襲えるタイミングを見計らって一斉に出てきて、全員で小次郎さんをフルボッコにしたと考えるのが自然じゃないかな?
小次郎さんが鞘を投げ捨てた理由
古川古松軒さんの『西遊雑記』によると、地元民は宮本武蔵さんが弟子達を連れて島に渡るのを目撃し、佐々木小次郎さんを引き止めたという。だか彼は一人で島へ行く。
遅刻どころか、小次郎さんより早く島に到着したことになるね。やはり遅刻はガセでしょう。ヘタしたら「武蔵が来ないから俺の勝ち🙌」って小次郎さんに勝ち名乗りされかねないですし。
何に書かれていたか忘れたけど、武蔵さんの遅刻にイラついた小次郎さんは、自分の鞘を海中に投げ捨てたという。
もし本当に鞘を捨てたなら、私は小次郎さんの心情をこう解釈する。
愛刀の鞘を捨てるなんて、その背景には並々ならぬ想いがあったはずだ。
二度と鞘を収めることは叶わず、帰ることも叶わない己の未来を知り、「お前の企みは知っているが、それでも俺は約束通り一人、この刀で最後まで戦うぞ!」と腹を括った男の意志表示だろうよ。
それを見て「小次郎、敗れたり!」と本当に言ったなら(創作だろうけど)、◯呆だ。小次郎さんから「おまえは反則負けだ!弱虫め!」と言われているようなもんだから。
そもそも宮本武蔵さんは、まず心で完敗しているよね(卑怯な策に頼るのは、心の弱さの証)。
鉄砲隊の理由
挙げ句『沼田家記』の通り、集団リ◯チ◯人した事が佐々木小次郎さんの弟子達にバレたので、宮本武蔵さんは鉄砲隊に守られながら帰ったなら、恥の上塗りだ。
しかし、本当に沼田さんが鉄砲隊を出したなら、ただ事じゃない。決闘の原因が、双方の弟子達によるいがみ合いというのは無理がある。
きっと宮本さんサイドに決闘するよう仕向けた黒幕がいるんでしょう。
例えば背後に藩内部のゴタゴタとか、切支丹絡みとか何か有って、邪魔な佐々木小次郎さんを決闘させて、体裁良く葬りかったんじゃないか?本当は小次郎さえ◯んでくれれば、武蔵が相打ちで◯んでも可、って思っていたかもね。
ついでに、武蔵さんが世間から白い目で見られても、弟子同士のいがみ合いが決闘の原因ってことにすれば、黒幕は無関係を通せるね。
宮本武蔵さんも、小次郎を葬れば兵法者としての名声UP!って考えたかもね。
そしてもしそんな裏が有ったのなら、佐々木小次郎さんは気付いていただろう。
何があったか知らないけど闇深いなー。
世間の反応
当時はめっちゃセンセーショナルな出来事だったでしょう。
『西遊雑記』によると、地元民は、舟島で亡くなった小次郎さんの墓を作って冥福を祈り、巌流を名乗っていた小次郎さんにちなんで、舟島を巌流島と呼ぶようになったという(ただし正式名称は現在も舟島)。
地元民は、よほど佐々木小次郎さんに同情的だったんだろう。勝者の武蔵島ではなく、敢えて敗者の巌流島と呼ぶ。これが全てを物語っている。そして佐々木小次郎さんは、悲劇のヒーローとして好意的に語り継がれることになる。
一方の宮本武蔵さんは讃えられることも無く、卑怯者・大嘘つき・実は弱い奴といった悪評が語り継がれ、世間に広まったんだろうと容易に想像できる。
でも武蔵さん本人は勝ったつもりでいるし、自身は後悔も反省も無く、それどころか不当なレッテルである、と内心憤りを感じていたんじゃないかな?
なんせ「ルールなんぞ無し!知力も手段も総動員して、なりふり構わず葬るべし!それが兵法者!」って考えの人でしょう?
当時の世間が、宮本武蔵さんを勝利者とは認めなかった理由は、兵法者である前に人として卑劣な行為である、という認識だったからだと思うけどね。
ルールに同意したうえで行った決闘なのだから、兵法者の肩書は免罪符には成り得ないわね。
世間から認められなかった勝利。本当は心の何処かで判っている、◯しても手に入らなかった勝利。もはや永遠に佐々木小次郎さんには敵わない。口には出さなくとも、その悔しさや失意は計り知れないでしょう。
まとめ
結局、宮本武蔵さんは、佐々木小次郎さんを葬る目的は果たせた。けれど、心の底で小次郎さんを恐れ、同意したルールの重みに気付かず、兵法者の肩書に酔い、策に溺れ、生き恥を晒してしまったんじゃないかと思う。
誰しも、己の価値を上げたいものだが、『五輪書』を読む限り、宮本武蔵さんは無敵・無敗のレジェンド級兵法者という理想の自分像に激しく拘っていた。きっと経歴的にも人格的にも讃えられたかった人だと思う。
過去の自分も含めて自己否定はしないが「必ずしも葬れば勝ちとは限らない」と学んだような気がする。きっと佐々木小次郎さんとの決闘の後、色々考えたんじゃないでしょうか?
現代の宮本武蔵さんに対する評価を見ると、『五輪書』や『独行道』は、己の価値の向上・名誉回復・弁解・自己正当化として、大いに効果が有ったと言えるだろう。
『五輪書』の記事は、こちらでも紹介しています。