学生時代に習った中島敦さんの短編小説『山月記』。再読したので、私なりに読み解いてみました。物語の解釈は十人十色。こういう解釈をする読者もいるんだな、程度に考えてもらえれば幸いです。
『山月記』漢詩の心。私の解釈はこうだ
李徴は、現実と理想のギャップに苦しみ、自身でコントロールできないほど肥大した性情ゆえに狂い、虎になってしまった。
徐々に人としての心までもが失われつつある中で、偶然、旧友の袁傪と再会。そして自作の漢詩を袁傪に聴いてもらう。
この部分ですね
今の懐いを即席の詩に述べて見ようか
〜中略〜
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成噑
時に、残月、光冷ひややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。引用:山月記(中島敦)
〈漢詩の意味〉学校で習ったのは確かこんな感じ
「私は心を病み獣になってしまった。この災いから逃れるすべも無い。
獣ゆえにこの爪と牙は無敵である。昔は私達は二人とも、秀才と評されていた。
今の私は叢(くさむら)の下にいる獣。君は出世して乗り物の上。
私は渓谷の明月に向かって詩を吟じることも叶わない。獣の身ではただ吠えることしかできないのだ」
って感じでしたかね。
漢詩の心と李徴の心
「なんで袁傪とお喋りできるのに、詩を吟じることができなかったの?っていうか今、吟じたよね?」っていうヤボな突っ込みはさておき(笑)。
確か、学校で教わった漢詩の心は上記のような『人虎伝』と同じ解釈だった。ぶっちゃけ惨めったらしい心情を綴った詩ってことになるね。
しかし『人虎伝』の李徴のキャラとは似て非なるものだ。『山月記』の李徴は気高いよ。
だから私は、下記のような想いを伝えたかったのだと思うんだ。
〈漢詩の心・私流の解釈〉
この詩で、人間・李徴として真の心を伝えたい。
昨日までの我は、
無敵の爪と牙を持つ獣になったこの身を嘆き、
心が病んでいた過去を悔やんでいた。
渓谷の、夕暮れの月明かりの下で、
ひたすら嘯を渇望して叶わず、
嘷ることしかできずにいた。
かつては我と共に秀才と評されていた友・袁傪よ。
我はもう嘆くまい。
今も人の道を歩み続ける友・袁傪よ。
人の身に戻れぬ身である我は、潔く獣の道を歩もう。
渓谷にて夕暮れの明月を仰ぎ、我は獣らしく嘷よう。
人の如き長嘯ではなく、虎嘯でもない。
虎の嘷だ。
時は残月。暁は近い。
我は今ここに誓う。
つまり李徴らしい心情&決意表明だった、と読み解いた。
なぜかというと、漢詩の前に、李徴は「この気持ちは誰にも分からない」と言っている。
李徴は誇り高く頭脳明晰。袁傪には知ることはできても、理解できるはずもない愚痴や泣き言を聞いて欲しいのではなくて、経緯を伝えたうえで、自分のスタンスを友人・袁傪に聴いて欲しかったのだと思うんだよね。
さらに漢詩の後、漢詩の補足っぽい内容が含まれた李徴の告白が続く。憤りや悲しみの中にあっても、冷静に自己分析して己を省みている。だから自分が虎になった理由に辿り着いたんでしょう。
袁傪の心境
李徴が人間社会にいた頃の漢詩には、内心イマイチな評価をした袁傪が、最後の漢詩については評価・感想が無い。
これは、虎に変わろうとも李徴は友だと思っている袁傪は、漢詩の真意と月の意味を察して、評価できる心境じゃなくなり
「そういうことか… (´;ω;`)ブワッ」
っと泣けてきて、ただ残月を見上げることしかできなかった、と私は読み解いた。
人間・李徴としての最後の詩であり、人としての真の心と共にその詩を託されたわけですから、重すぎて評価なんぞできないでしょう。
月について
『山月記』では何度も月が描写されていますね。漢詩にも月が出てくる。
ということで、月の意味を読み解いてみます。
月の意味
大雑把に言うと、月の意味は下記の3つ。
- 月は、時間の流れの表現。
- 暁の訪れと共に輝きを失い消えつつある残月は、やがて消えゆくであろう李朝の人の珠(心 or 魂)のメタファー。
- 夜の闇に覆われつつある夕暮れの、輝きを増していく月は、獣となりゆく李徴の珠(心 or 魂)のメタファー。
漢詩に出てくる月の意味
獣となりゆく李徴の珠(心 or 魂)のメタファーなので、上記の3に該当しますね。
漢詩直後の月の意味
「今は暁の近づく残月」は、叢(くさむら)を隔てた二人が同時に仰いだ残月だと思う。
つまり、暁が近づく時間帯。及び人としての心で最後の漢詩を語りきった李徴と、漢詩の月の意味に気づいて 李徴の今の懐い=漢詩の真意 を察した袁傪。二人の目線の先には、暁の訪れと共に消えるであろう残月があった。
二人は、残月に、李徴の中で消えゆく人の珠(心 or 魂)を重ねたんじゃないかな。ということで上記の1と2に該当しますね。
嘯と嘷について
人が声を長くひいて詩歌を読むこと。人が主体。
※嘷(こう、ごう、いがむ)
獣の咆哮。獣が主体。
李徴にとって詩人を夢見た過去は、人としての人生があった証だからこそ、心は漢詩に拘り、決意を最後の漢詩に託した。
漢詩の 《 嘯 と嘷 》 には李徴にしか理解できぬ想いが詰まっていた。
今までは人であり続けたかったからこそ、人の証である嘯に拘り嘯きたかった。しかし虎の身では噑ることしかできなかった。
人に戻れぬのなら、いっそ己の意志で虎として潔く噑ることを選択しよう。ってことでしょう。
己の生きる道が獣のそれと知って選んだ《嘷》ならば、それもまた風情でしょう?😊
『山月記』の記事は、こちらでも紹介しています。