『地下室の手記』は、世界的文豪フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーさんの「全作品を解く鍵」と言われている名作。地下室に引きこもった男の独白、というスタイルで書かれた中編小説です。
『地下室の手記』書籍情報
タイトル:地下室の手記
作 者:フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
ロシアの小説家、思想家。1821年〜1881年。
トルストイ、ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。
簡単なあらすじ
極端な自意識過剰から周りの人と良好な関係を築くことができず、社会との関係を絶ち、地下室に引きこもった男の手記。
読書難易度:
読書慣れされていなくても読めると思います。それよりも内容が暗いので、メンタルが不安定な時は、非推奨。
あと、太宰治さんの『人間失格』とソックリなので、『人間失格』が苦手な方、お子様にもお勧めできない感じの本です。
感想・レビュー・考察
この物語『地下室の手記』の主人公は根暗。お名前はネクラーソフ。ダジャレみたいでちょっと笑ってしまった😆よし、ネクラ君と呼ぼう!
ネクラ君は、太宰治さんの『人間失格』の主人公・葉蔵クンと系統がよく似ている。どちらも自ら幸を薄くして、自分の殻に閉じ籠もって、生ける屍と化すことを人生のゴールにしたキャラだ。
つまり名作だけど、それ故に読者をネガティブに引きずり落とすパワーを持っているので、情緒が安定されている時に読んだ方が良さげな作品でしたよ。
主人公的な要素は自分には全く無い、と思える人は極めて稀じゃないでしょうか。
だって人間の性質は、明るく綺麗なものだけでできているわけじゃないですので。誰もが多少なりとも醜悪さを内側に有しているし、意識は大なり小なり皆んな病んでいるもんだ。
ということで、読んでいるうちに、闇に葬ったハズの自分の黒歴史を思い出して「うわぁ…💧」ってなるかもしれません。
【POINT1】自分を救わない主人公
ネクラ君は地下室に引きこもって、手記に否定的なことばかり書きまくっている。我々読者は、それを読むわけですが…
他者を否定するネクラーソフ
自己肯定感が低いからこそ得られる快感がある。それは他人を否定・批判してみせることだ。
これなら口先だけで簡単に優越感を得られるね。それで快感を伴う成功体験を記憶すると、脳は何度でもその快感を求めるので、他者への否定・批判がやめられなくなる。心の弱さだね。
そして己の優越感を満たす道具として他者を見てしまいがちになる。
ネクラ君も他者を否定・批判ばかりしている。
原因は簡単だ。原動力は思慕や妬み、自分の感情以上にどうにもならない現実。その根底にあるのは自己肯定感の低さ、多幸感への飢え。
故にままならない感情の矛先は思慕や嫉妬、自分の感情を揺さぶる相手に向けられる。 相手をディスりながら、本当はディスっている自分が深く傷ついているのだ。
しかし他者を踏みにじっても、踏みにじっても、根本的な自己肯定感がちっとも上がらない。心は満たされない。
そりゃそうだ。外側を見てあーだこーだ言ってるだけだもん。そこに自分が無い。
自分を否定するネクラーソフ
ネクラ君は、自己分析して自己否定・自己批判している。反省とは違う。これは心の自傷行為だと思う。
その痛みは生きている実感を得られるだろう。その実感は生きている安心に繋がるだろう。
確かに人は経験して実感を得ることが生の醍醐味だから、そういう意味では苦痛も喜びも等価だ。
でも残念ながら、そのテの陰鬱な快楽に浸るだけでは、己の本当の気持ちに応えていないんだなぁ。
なぜなら人間には自分を喜ばせたい、幸せを感じたいって気持ちが備わってるんだな。
ネクラ君はそこを無視して、自分のことなのに、他人ヅラして自己否定・批判している。これって自分で自分をイジメている状態なんだよね。
歯医者も否定するネクラーソフ
ネクラ君は、虫歯になって歯医者へ行くのは虫歯の奴隷になることだ、という自説を語っている。
この人、歯医者が怖くて行けないヘタレなだけじゃね?って普通に思った(笑)。
しかしこんなしょーもない屁理屈を真面目に語るとは(笑)。ロシア文学の伝統芸でしょうか?キャラ的にはピッタリなのでイイと思いますけども(笑)。
せっかくだから屁理屈返しをしようかな😂
奴隷とは、望まぬ痛みや苦を強いられて暮らしている状態でしょ?なのになんで歯医者に行くと奴隷なの?逆じゃね?
己が発している歯の痛みに、己が応えるから、歯医者へ行くのよ。虫歯による歯の痛み、という奴隷状態から解放される喜びを得るためよ。
いい大人なんだから虫歯になったら勇気を振り絞って、さっさと歯医者へ行きなさい。お口が不潔な男はモテないわよ。
男面倒臭い男だなー😂
免罪符
そんなわけでネクラ君は、自分の心の痛みにも体の痛みにも応えない。挙げ句、己の醜悪さを弁解がましく「諸君」に吐露。誰かに読まれることを想定しているわけだ。
心底人間嫌いなわけじゃない、ってことだね(笑)
しかし免罪符にはなるかもしれんが、これじゃ自己救済にならないんだなぁ。だから同じ事を繰り返すんだ。心が悲鳴をあげてもなお自己救済しないネクラ君だった。
頑なだなー😂
本当は、外側への過剰な敵意は、良好な人間関係への渇望の裏返し。自己否定・批判は、自分を愛したい気持ちの裏返しでしょうに。
自分の本心を無視するから、どこにも善きに繋がらないのよね。
【POINT2】ヒロインのリーザ
物語の中でネクラ君には出会いがある。リーザという女性だ。しかし残念なことに、彼は愛を育む前に恐れが来てしまい、メンタルがキャパオーバーになってしまう。
つくづく不器用な人😂
そんなネクラ君に対して、悪気も無く、まるで聖母の如き憐れみをかける心優しいリーザ。
だがしかし
《憐れみ》ってやつは、実は最上級の上から目線なんやで(笑)。
だってほら、神も、イエスも、マリアも積極的に憐れむでしょ?
これじゃ主人公の高すぎるプライド、及び男としてのプライドがズッタズタ。
エピソードが秀逸過ぎて、つい笑ってしまった(多分、笑うポイントじゃない😆)。
まとめ
今回は『地下室の手記』のレビューでした。
読む人を選ぶ作品ではあるけれど、文章自体は読みやすいですし短い物語なので、ドストエフスキー入門書として最適だと思う。
もしドストさんの作品を読んでみたい方がいらっしゃったら、手にしてみてくださいね😊
それにしても主人公をとことん墜落させたドストさん、お見事でした(笑)👏
地下室って、この物語ではメタファーとして2つ意味があったように思う。
1つは、脳内とか意識とかのメタファー。
もう1つは、人生の墓場・地獄・牢獄か、或いは冥府にあるコーキュートス(嘆きの川とか、最下層の凍った湖)あたりのメタファーじゃないかな。
実に興味深い作品だった。
きっと地上では、地下室の上に冷たく黄色いべた雪が降り積もっているのだろう。
追伸
本書を読む前は、本のタイトルを『地下鉄の手記』だと思い込んでいたことは内緒(笑)。
『地下室の手記』の記事は、こちらでも紹介しています。