『桜の樹の下には』は、100年近く前に執筆された梶井基次郎さんの短編小説。「桜は人が大勢亡くなった跡に植えられている」という都市伝説の元ネタの一つ。
『桜の樹の下には』書籍情報
タイトル:桜の樹の下には
作 者:梶井基次郎(かじいもとじろう)
小説家。大阪府出身。1901年〜1932年。
19歳で結核を患い、文壇に認められて間もなく31歳の若さで病没。短い人生の中で、デビュー作の『檸檬』をはじめとする20作ほど執筆。死後に作品の評価が高まった早世の天才作家。
簡単なあらすじ
「俺」が見出した真理を、「お前」に語るだけのショート・ショート。
読書難易度:
ホント短いのであっという間に読了できちゃう。なんならこの記事の方が長い(笑)。たまにでも読書されている方なら、完読も難しくないんじゃないかな。
〈 補 足 〉
※読了:ただ読み終えるだけ。※完読:内容を理解して読み終える。
ただし少々グロい描写が有るので、読む人を選ぶ作品かもしれません。
感想・レビュー・考察
もうすぐ桜の季節がやって来る。
根っこから吸い上げられた大地のエネルギーは幹へと湧き上がり、枝へと流れていく。 そして冬の間は内に秘めていたそのエネルギーを、力強く放つかのように花を咲かせる桜。
人を楽しませるために咲いたわけじゃないけれど、爛漫の桜の木の下には人がわんさか集う。
大勢の人に踏み固められていく地面を見ると、桜の根っこが可哀想な気がするが、なにはともあれ毎年見事な桜を見せていただけていることに感謝、感謝🙏今年も期待しているよ。
そういえば子供の頃は、周囲に誰もいない時に見る開花中の桜って綺麗だけどちょっと不気味だなぁ、って思っていた。
桜の花には、どことなく吸い込まれる様な妖しさがあるのよね。
ということで、桜にちなんだ本のレビューをしようと思う。
桜がテーマの名作といえば
梶井基次郎さんの『桜の樹の下には』、坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』が有名ですね。
桜の時期になるとこの2つの妖しくも美しい物語を思い出すんですよ。
どちらも自分が感じていた桜のイメージと重なるので、共感できるものがある。
今回は、桜を題材にした名作短編小説、梶井基次郎さんの『桜の樹の下には』。
梶井さんといえばやっぱり『檸檬』の方が有名かな。レモンが尊いってお話(端折り過ぎ?)。私はビジュアル的に青リンゴ推しだが…
それはともかく『桜の樹の下には』も名作ロングセラーですよね。
【POINT1】冒頭文と都市伝説
この物語の最も有名な一文といえばコレ
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
引用:桜の樹の下には(梶井基次郎)
インパクト大!素晴らしいね✨冒頭にいきなりコレ持ってきた梶井さんの感性よ!この一文でもぅ名作決定!!(笑)
実はこのフレーズが「桜は、人が大勢亡くなった跡に植えられている」という都市伝説(?)の元ネタなんですよね。
もう一つ、民俗学者の柳田國男さんの『信州随筆』も元ネタらしいんですけど。
確かに桜はバラ科なので肉食系の大食漢。つまり肥料が大好きな花木だ。
都市伝説の真偽を追求する気はないですが、もしも本当なら土葬時代の話でしょう。
でも既に土に分解されて何も残っていないでしょうね。人なら100〜200年くらいで土に還るそうですし。
勿論、現代では如何なる理由でも屍体を直接肥料にするとか有り得ない。
チッ素・リン酸・カリがバランス良く配合されている園芸用肥料を適切に用いる方が効率的。無許可で人を土葬すると死体遺棄、ペットの場合は場所によっては不法投棄なので。
【POINT2】俺の目線
この作品は、梶井さんが亡くなる4年くらい前のもの。
じわじわと迫りくる己の死を予感しながら執筆したのでは?とか、主人公は作者自身では?とか、そんなバックグラウンドを感じずにはいられない作品だ。
例えば桜を通して「俺」の心の目が見つめていたものは…
儚くも美しく咲き誇る桜。
その木の下の地中には、美しいとは表現し難い屍体。
ゆっくりと時間をかけて土に還り、根から吸収され、
やがてイキイキと咲き誇る桜の花に生まれ変わる屍体。
脈々と続く生命の連鎖、生命の循環。
こんな感じかな…
生と死、美と醜だけではない。この世の背反する二つの原理や基本的要素は、どちらか一方だけでは成り立たない。
漠然と知ってはいるけども、まるで他人事のように実感が湧かなかったであろう死。
ところが死を予感させる病を患った「俺」は、生をもっと知りたくて死を考えて、死をもっと知りたくて生を考えるようになったんじゃないかな。
だから美しいものも、残酷な現実にも目を背けずに、生命の循環を見つめていた。そしてそこにあった死から、自分に足りなかった解を得たのだろう。
【POINT3】孤独な表現者
物語では、儚くも美しく咲き誇る桜や、儚い命のカゲロウなどを通して自分なりに見出した真理を「お前」と呼びかけながら、一方的につらつら語るだけのシンプルなスタイルで話が進んでいく。
これは「俺」の見出した真理が、たとえ己の観念や心象でしかなくとも、「お前」と共有したかったのではないでしょうか。
心のどこかでは、理解の完全なる共有は無理だと気付きながらも。
そんな印象だ。
しかも「お前」がどこの誰なのか、情報が何も書かれていない。
苦しそうな顔をしたり、脇の下を拭いていた者がいたんだろうか?と疑問すら感じる。
「お前」は話を聞いてくれているのか、「俺」は声に出して語っているのかさえ疑わしい。
けれどひとつだけ分かることがある。「お前」は遠い。
何度も「お前」と呼びかけて語っているのに、「お前」が観えてこない。
…なんて孤独な文章なんだろう。
いつの世も、ある意味ガチな表現者は孤独なものだな。
【POINT4】マイ真理
「俺」は、自分も輪廻の中にいることは漠然とは知っていたが、それが理解に変わったんでしょうね。死の予感を抱えていたならば、輪廻の中にいる安心感さえ感じていたのかもしれない。
生命の歓喜と共に桜の木が一斉に花開く。
誰もがこの時を待っていた。
土の中で次の生を夢見る死者達も、
先に花と成った者達を見て喜んでいる。
生者達も桜の木に集う。
見事に咲いた桜を目にしたくて。
互いに喜びを分かち合い、共に酒宴を楽しみたくて。
同胞達が、脈々と流れ続けている生命の輪廻を祝う。
俺もまたこの世界の意志をうつす鏡であり、
その意志を具現したミクロコスモスであり、
一にして一切なる存在だった。
俺も無数の同胞達と同じように、
この世界と無限の関係に立っていたのだ。
ようやくそれを識ることができた。
今度こそ、此岸に居る者達や、
目には見えなくとも彼岸に在る者達と共に、
俺も酒宴を心から楽しめそうな気がする。
互いに輪廻の中にある者として。
美しい生命の誕生と、壮絶な死が同時にあるこの世界の、
此岸と彼岸の間(あわい)に咲く桜の樹の下で。
そんな風に思ったのかな…。想像逞しく言葉にしてみました(笑)。
例えば宗教とかで真理とやらを教えられても、それが真理であることを担保するものが無いんだよね。聞いて納得するだけなら真理である必要もない。信仰心だけあれば十分でしょうから。
でも「俺」は借り物の真理ではなく、知識だけではなく、言葉だけでもなく、感覚だけでもなく、知情意の全てで納得できるマイ真理が欲しかったんじゃないかな。
たとえそれが、結果的には既存の類似思想であったとしても。ただ見失っていた「常なるもの」であったとしても。
梶井さんと人間・釈迦
宗教上の設定は置いといて、バラモン教の思想に挑み菩提樹の下で悟ったゴータマさんと少しだけ似ている気がする。
ひょっとしたらあの人って、瞑想によって何らかの悟り体験をしただけじゃなくて、自然の中で生命の循環を観察して考えていたんじゃないかな、と思うので。
初期の教えと、インドの歴史的な背景を見るとそう思う。
個人的な印象ですけどね。
まとめ
今回は梶井基次郎さんの『桜の樹の下には』の感想と深読みでした(ちょっと書きすぎたかな?)。
以前記事にした『100万回生きたねこ』も愛と死にフォーカスした輪廻転生でしたが、『桜の樹の下には』は循環思想寄りの輪廻転生でした。どっちも良かった。
この作品はグロテスクな描写に注目されがちだけど、日本人の死生観にも通じる美しい物語だった。文体も繊細でとても美しい。日本人なら、この本に共感や理解できる方が多いんじゃないでしょうか。
言葉は目の前にあるが、その奥には広大な世界が広がっていたよ。
梶井さんが辿り着いた真理と美学、そして表現力に興味が有る方は、ぜひ読んでみてくださいませ。
『桜の樹の下には』の記事は、こちらでも紹介しています。