知の巨人・西田幾多郎さんの『善の研究』は、明治44年に刊行された日本初の哲学書。純粋経験という概念を提唱し、人間存在の根本的な問いに挑んだ名著。
『善の研究』書籍情報
タイトル:善の研究
作 者:西田幾多郎(にしだきたろう)
英語名は D. T. Suzuki (Daisetz Teitaro Suzuki)
哲学者、文学博士。石川県出身。1870〜1945年。
簡単な内容紹介
宗教色、特に仏教色強めの哲学本。
「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の四編構成になっている。
主観と客観が分かれる前の状態を《純粋経験》とする概念を提唱し、真の実在とは?善とは?宗教とは?神とは?等を考え、人はどう生きるべきか?を解いている。
読書難易度:
難読書ではあるけども、哲学書としては読みやすい方だと思う。
内容が仏教寄りなので、哲学の大技小技のような表現に惑わされなければ、目新しさは少ないと感じるかもしれない。
感想・レビュー
『善の研究』といえば、西田幾多郎さんの教え子・三木清さんが哲学の道を志すきっかけになった哲学書ですね。
日本初の哲学書と評されることもあるくらいですので、哲学を学んでいる日本人なら必読書なんでしょう。
私は特に哲学に関心があるというわけではないのですが、超絶賢い人の思考を数百円から数千円で知ることができるんだから、こんなん読まなきゃ勿体なーい!と思って読んでみました。
えっと…、完読というのはおこがましいな。読了できて嬉しいよ。
西田哲学を勉強した専門的な方々のように論じることはできませんので、あくまでも素人読者としての感想だけ書いておきます。
【POINT1】宗教色強め
小難しい文章でしたけど、想像以上に宗教的な本だった。
まず禅の《円相》を西田さんなりの解釈で語っているような印象でしたね。
ちなみに《円相》とはこれ⇩
円相
円相(えんそう)は、禅における書画のひとつで、図形の丸(円形)を一筆で描いたもの。「一円相(いちえんそう)」「円相図(えんそうず)」などとも呼ばれる。
悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされるが、その解釈は見る人に任される。引用:Wikipedia/円相
もっというと西田さんの主張は、仏教の《あるがまま》《仏心》《禅》《華厳経の一即多 多即一》《般若心経》あたりをベースにして、バラモン教の《梵我一如》、キリスト教の《愛の概念》などを追加している印象でした。
参考までにとんでもなく長い経典『華厳経』。正式には『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんぎょう)』に基づく華厳思想っすな。
1つと認識してるものは多くの個であり、また多くの個と認識してるのは同一のものである、みたいな意味だったと思う。
梵(ブラフマン)は、宇宙を支配する原理。
我(アートマン)は、自分という一個体の個体原理。
この2つが実は同一であるという考え方だったと思う。
ちなみに私は『華厳経』とか読んだことはありません。
きっとありがたいお経なんでしょうけど…、一般ピープルの私には「釈迦の正体が毘盧遮那仏で〜」とかの膨大な設定情報を読むよりも、浄土真宗や浄土宗みたいに
「信じるだけでええんやで😊」
「ナムアミダブツって唱えるだけでええんやで😊」
って一言だけ説いてくれる方が、おサイフに慈悲深く、脳ミソに慈悲深く、目ん玉にも慈悲深い。何より文盲にも幼稚園児にも慈悲深いでしょ。と思ってしまうんですよね。
宗教の根幹にフォーカスして、余分な贅肉をとことん排除した智慧の結晶のような一言だ。素晴らしい✨
『般若心経』は色即是空、空即是色でお馴染みの空の話。あと諸行無常と諸法無我も説いているお経でしたね。
要するに、既存宗教から良いとこ取りで抽出した思想を、哲学っぽい表現で説明している印象の本でした。
私は、西田さんの信仰の自由は尊重したいと思う。
そのテの話なら真偽を問う気も無い。
きっと宗教真理を自分の中に吸収して、深く理解したうえで、自分の言葉・自分の真実へと昇華しているんだろう。という理解も示したい。
けど、答えありきの宗教にここまでドップリ依りて語らなくても、西田さんならもっと己の知でテーマに肉迫できる哲学者だったんじゃないかなぁ、と思えてならない。
【POINT2】純粋経験と善
哲学的必殺技のようなネーミング《純粋経験》。
名前とは、そのものを、そのものたらしめる記号であると思っていたのだが…、
《純粋経験》の言い出しっぺはウィリアム・ジェイムズさんでしたっけ?そのネーミングは、哲学に明るくない者への理解を妨げるトラップの類いに思えてしまったんですが、気のせいでしょうか?😂
西田さんは、主客未分の状態における経験自体というよりも、むしろその経験全体の根源にある無意識的・潜在的なものというか、心の深層を見据えて語っているようにも感じたけど、どうかな…。素人解釈ですけど。
まぁ、あれだ。《純粋経験》なんて言ってるけど、早い話が仏教の《あるがまま》を西田さん流に解釈して小難しく説明した感じ、という理解で概ねOKじゃないでしょうかね、多分。
哲学の体裁を保たなきゃ、ですもんね(知らないけど😊)。
ちなみに、Let It Goの《ありのまま》じゃなくて、Let It Beの《あるがまま》の方だよ。
そして「元々人に備わっている《善》」とは、仏教で言うところの「元々人に備わっている《仏の心》」と概ね同じでは?と思った。
【POINT3】アルファ、オメガ
西田さんは、自身の思想を「我々にとってのアルファ、オメガ」だと評していた。ポジティブだねぇ(笑)。
ところで「我々」って読者全員のことかしら?つまり私のことも、西田さん信者に含んじゃった感じかしら?
誤認だと書きたくて仕方ないけど、我慢してもうちょっとがんばるよ(笑)。
アルファとオメガもここからの借用でしょう。
I am Alpha and Omega, the beginning and the end, the first and the last.
(私はアルファでありオメガである。始まりであり終わりである。)引用:新約聖書・ヨハネの黙示録
ちなみにアルファとオメガは、ギリシャ語アルファベット最初の文字「アルファ」と最後の「オメガ」のことなので「始まりと終わり」。それが同時にあるってことですね。
ちょいと視点を変えれば、仏語で真理の無限性を意味する「無始無終」と同じような意味でしょうね、多分。
つまり…
この世で真理を問うて
始まりを探したら
終わりに辿り着いたら
それは
始まりであり、終わりでもあり
始まりも無く、終わりも無く
永遠の今、この瞬間、ここにいる
真の自己「I am」だった。
という素敵なオチですかね?妄想ですけど(笑)
案外、無限の真理とやらから切り取られた一枚の情報を見ているだけかもしれないよ。なんてねー😊
第一回のまとめ
今回は、西田幾多郎さんの 『善の研究』の感想でした。
世間の評判通りの名著だった。
時々文章表現に対する疑問があったし、自分の信念ともちょっとばかり違っていた。けれど、それなりに共感できる部分も有って、興味深い一冊だった。
いつか哲学者という色眼鏡を外して、人間・西田幾多郎さんが辿り着き、書き残した真実の書として読めそうな時がきたら、ぜひ再読したいと思った。
本書は、仏教ベースとはいえ仏教だけをディープに学びたい方は、やはり仏教の専門書や経典の類いを読んだ方が満足度が高いと思う。
でも仏教の副読本か、仏教寄りの読み物という位置付けで読まれるならば、大いに満足できるんじゃないでしょうか。
哲学を学んでいる方のみならず、仏教を信仰されている方や、自分という人格や人生を深く見つめてみたい方にとっては、知的冒険を促してくれる名著だと思いますよ。
興味があったらぜひ読んでみてくださいね。
法華経を深く理解したい方ならコレ。
『善の研究』の記事は二回シリーズになっています。