【第一回・感想】善の研究/西田幾多郎|日本初となる哲学書の続き。今回は疑問に感じたことや、作者にもフォーカスした深読みを中心とした記事になっています。
深読み
疑問点
本書では「真理は一つしかないのだから」と断言されている。「…うお?」ってなった。
そりゃあ《西田さんにとっての真理一つだけ》かもしれんけど、なんだってこの内容で、この文章で、主語を省略しちゃうかなぁ?
素人の私が言うのも失礼ですけども…
宗教には人間が辿り着ける最も深い真理を語っているかもしれん、とは思うよ。
だとしても既存宗教からの借用てんこ盛りでは、その真理もまた借り物に対する信心じゃないかなぁ、という印象がするんですよ。
それと第一回の記事で書いたけども、本書の「我々」という表現な。
これでは大量の既存宗教の切れ端をパッチワークして、辻褄合わせして「俺の信念だけが正しい!だから我々の真理はコレ一つだけ!」と、信念の押し付けをされているかのようなモヤモヤを感じてしまうんだなぁ。
借用は多くとも、そうして辿り着いた西田さんの真理もまた、きっとダイヤの原石のような真理だろう。という理解とリスペクトは持っている。けど、やっぱりこういう宗教色の強い話は、執筆するにしても自己完結して欲しかった。信者獲得目的ではないならば。
ところで
哲学で《真理》というワードに手を出すのは、案外リスクが大きいんだろうなと思った。
言ったもん勝ちの宗教ならば、真理も言ったもん勝ちでしょうけど。哲学ジャンルだと、真理は無いと考えた時《真理は無い》という真理が生まれてしまいそうだ。
哲学として《真理》の答えを求めるならば、説得力が最も重要になるだろう。そうなると《真理》を深めるのは《真理》そのものにあらず。辻褄合わせにあり。になってしまう可能性があるんじゃないだろうか?
私は専門家じゃないので、素人の想像の域を出ませんが。
西田さんについて
それにしても、西田さんってさすがに頭のネジがきっちり締まっている大人なんだなと感心した(褒め言葉ですよ)。
ほら、大人になると
「動機とゴールがなければ出発できないじゃん!」
「何を作るか理解しなければ実行できないじゃん!」
という思い込みに囚われがちなので、何か設定したくなるもんだ。
宇宙も自然も答えなど語ってはくれないけれど、人間とは知りたがりで、解釈したい生き物で、意味と価値を付与したい生き物なんだなぁ、と改めて思った(笑)。
そして知的であればあるほど「謎のままにしておけない心」が生じるんだろうね。
孤独な書
西田さんが知だけで執筆したのか、他に何らかの悟り体験とか一瞥体験でもあったのか、知だけでなく情と意も総動員されたのか、本からは察することはできませんでした。
「人間は俗っぽさを排除してナンボ(え?)」っていう揺るぎなき信念の柱をお持ちだろう、くらいは感じますけども。
それと、私の読解があながち間違いでなければ、の話ですけど…
読者として納得できるかどうかとか、分析や考察するため或いは感想や書評目的の理解ならともかく…
ここまで観念的ですと、西田さんとほぼ同じ信仰を持って、尚且つ西田さんが語るゴールらしき状態に到達するか、それに近い体験・体感でもしなければ、深い理解には至らないんじゃないかなー。
でも日々《純粋経験》というか《あるがまま》を個人で実践する暮らしは、日常生活者にはちょっと不向きな気がするのよね。
そのテの自己分析・自己観察って感情の餌にも養分にもならないので、そういう意味ではメリットがあるといえるけども、独学で個人がやり過ぎると深刻なデメリットに繋がりかねない、かもしれんので。
私は専門家ではないので、断言や無責任なことは書けませんが。でも坐禅沼や瞑想沼にどっぷりハマった事がある人なら、ピンと来るかもね😊
おそらく西田さんほどの方なら、どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ読者がいても、深い理解者なんてそうそう現れない、と気付いていたんじゃないかな。
釈迦のように「犀の角のように独り歩め」と腹を括るか、開き直らなきゃ、執筆すればするほど誰とも世界観を共有できない孤独や無縁を感じるんじゃないでしょうかね。
なんとも孤独な書だな。
楽天ブックス・善の研究 / 西田幾多郎あとがき
人間は知性があるからこそ、西田さんのネーミングした《善》とやらからかけ離れた認知の世界に生きているのだろうね。故に《善》とやらを知ることで、初めて観念的な世界の根源部分への認識に戻れるのかもね。
ほら、赤ん坊はまだ混沌の中にいるけれど、成長と共にネーミングよる分離を知り、定義付けからの認知となって、理解に繋がっていくでしょう?
つまり理解は分離ありきだ。
ならば最初の分離を外せるかどうかで、観念的な世界の見え方が変わるんだろうよ。
例えば、西田さんのように精神活動をバラバラに分離させて、それぞれに純粋経験・真の自己・偽我・善とかテキトーにネーミングして、区別・区分・分析してミクロで一つひとつの理解を深めるとする。
もし、そのあとに全てが同一であったと気付いたならば、ある意味根源への回帰みたいな見方ができるかもしれないね。
分離してマクロからミクロへ。今度は最初の分離を外してミクロからマクロへ。ですな。
でも結局は、人間の根源だの根本だの、気付いたところでそんなの別に大した意味も無いというか、あってもなくても問題ないと思えてくるかもしれんねぇ。
自分が生存する意味や究極のゴールとかにも気付いたとしても、それを語るのはさらに無意味と感じるかもしれんねぇ。
在るという理解には繋がるだろうけど、在っても無くても何も変わらないから、どっちでもいいよー😊ってね。現実に有るわけじゃないですし。
《純粋経験》《善》《真の自己》《偽我》《愛》…、どんだけ天才でも人は想像なくして語れないんだよね。
ひょっとしたら人間って、想像する自由があるだけかもしれんね。
《純粋経験》を深く理解したい方の必読書ならコレ。
西田さんが影響を受けた《純粋経験》については、ウィリアム・ジェイムズさんの『純粋経験の哲学』を併せて読むと理解が進むと思いますよ。
『善の研究』の記事は二回シリーズになっています。